夏 君が微笑む




『 佐伯 美絵 殿   5月1日付けをもって 新規事業部 企画課 勤務を命ずる 』

な、ななななななんで!?
辞令を受けとった瞬間、私の身体は凍り付いた。
何事もなく終えた新人研修。
きっと沢村さんも忘れてしまっているのだろうし、こんな冴えない女のことなんて覚えているはずもない、ほら、男なんて好きでもない女の人を抱けるって言うし、という結論に落ち着いて安心しきっていた私は、あまりもの偶然の重なりに運命を呪わずにはいられない。

「美絵、企画課かー。あたし経理だよ」
柚葉ちゃんが残念そうにつぶやく。
「律っちゃんは?」
「ん?あたしは総務課」
「そ、そなんだー。じゃあ二人は同じ部署なんだね」

柚葉ちゃんが総務部経理課。
律子ちゃんが総務部総務課。
同じ部署でフロアが同じというだけでうらやましい。
律子ちゃんは研修中に仲良くなった子で、ちょっとミーハーなところもあるけれど、とっても明るくて楽しい女の子。
いつの間にか私と柚葉ちゃんと律子ちゃんとは一緒にいるようになっていたのだ。
入社早々気の合う友人ができるって嬉しい。
嬉しいけれど。
どうして私が企画課・・・。
企画課なんて仕事ができそうな人が行くべきで、私のような補欠で入社したような人間に務まるのだろうか不安にさえなる。いえ補欠入社なんてあるかどうか謎だけど。
そして企画課には、沢村さんがいる。
沢村尚弥係長。
同姓同名の人違いなはずはない。
だってどこからどう見ても、あの時の不幸な被害者の男の人。
よりにもよって彼のいる部署に配属になるなんて。どう考えてもおかしい。おかしいとしか思えない。



月曜日、1ヶ月一緒に肩を並べて勉強した新入社員のメンバーはみんなバラバラの部署へ出勤する。もちろん支社で内定をもらった人たちは週末のうちに地方へと移動してしまったため、次に会えるのはいつになるかわからない。本社には半分くらいの人数が残っているが、一緒の部署に配属される・・・のは2人か多くて3人だ。
企画課に配属になったのは私ともう一人有吉孝夫君。漢字違いだけど元彼と同じ名前でドキッとしてしまう。でも名前で判断してはいけない、と一生懸命冷静に言葉を交わす。
朝礼で企画課課長が丁寧に私たちを迎えてくれ、紹介される。
ちらりと沢村さんの方を見てみたが、彼は気づいていないのだろうか。どこを見るというわけでもなく話を聞いているだけだった。
「佐伯さんは沢村係長についていろいろ教えてもらってね。そのうち補佐的なことしてもらうから」
「は、はい?」
私は思わず語尾が上に上がってしまう。
そんな話聞いていない。
課長は私の驚きに動じることなく私を沢村さんの目の前まで連れて行く。
「佐伯さん、彼が沢村係長だよ。じゃ、がんばってね」
あ、あのー。私を一人置いていかないでください。
涙目で訴えてみてもダメですよね。

「よろしくね、佐伯サン」

目の前に座る沢村さん…もとい沢村係長はニッコリと微笑んでそう言った。けれど彼の目は決して笑ってはいない。むしろ怖い。その含みのある笑みに私は、彼が私のことなんて覚えているはずもない、なんていうささやかな希望を打ち砕かれた思いだった。
「よ、よろしくお願いします」
私にはもう逃げ場所なんてなく、そう答えるしかなかった。



「佐伯サン。これコピーよろしく」
「これ、総務にもっていって」
「いつまでその仕事とろとろやってるの。これファイリングしといて」
「この書類のデータ、エクセルでまとめといて」

まるで雑用係も混じっているんじゃないかと言うほど次から次へと命令される。爽やかな笑顔で。その笑顔が偽物であることなんて分かっているはずなのに、私は何も言えず従うだけ。だって上司ですから。

「あれー、佐伯さん今日も使いっ走り?」
通りすがりに先輩女性社員から声をかけられる。
「あ、はい」
「沢村係長の下で働けるなんて幸せ者よ〜。まあうちの会社、社長と副社長が人気を二分してるけど、あの二人を除けば沢村係長はかなりいいところよ。仕事もできて優しいしね」
そうなのだ。
うちの会社はイケメントップ2と呼ばれる社長と副社長がものすごくかっこいい。かっこよくて独身で地位も言うことナシ、ということで女性社員の憧れの的。
とはいうものの、私たち新人はまったく出る幕もないけれど。
その二人に次いで、沢村係長は人気があるらしく、たぶん現実的にうまくいきそうだと思うのだろう、密かに思いを寄せている女性社員がいることを何度か耳にした。
みんな、騙されてる・・・。
あの優しい爽やかな笑顔の下には・・・。

「佐伯サン、遅かったね」
「す、すみません」
「資料届けるだけなのに、どこで何をしていたのかな」
耳元で囁くように言われるその言葉に私はビクビクと頭を下げる。
「今日、残業だからね」
またしても笑顔でそう告げられ、私はハイ、と答えて大人しく自分の席に戻る。
心臓に悪すぎる。
定時である6時が近づくとみんなそわそわし始める。
もちろんきっかり終われる日もあれば終われない日もあるのは当然で、けれどやっぱりみんなさっさと家に帰りたいためか、5時過ぎ辺りからはその日の仕事を終わらせるために躍起になる社員を横目で確認しながら、私はのんびり仕事をする。
どうせ残業なのだ。6時過ぎになるとパラパラと「お先に失礼しまーす」という声が響き渡る。繁忙期でないためか7時前になるともうほとんどの社員は退社する。
誰だって職場に長くはいたくないのだ。
「あの、係長、これできました」
私は今日の分の仕事を係長のデスクまで持っていくと、彼はふっと顔を上げた。
視線が絡み合う。

「ありがとう、美絵チャン」
係長の大きな手が私の手首を掴む。
ああ、やっぱり彼はしっかりと覚えていた。私のことを。
「あ、あのっ」
「大丈夫。もう残ってる人はほとんどいねーよ」
「で、でも」
「オマエとは一度じっくり話をしないといけない、と思ってた」
「あ、ああああの」
拒否権とか、ないですよね。
「そんな怯えた顔しなくても、取って食ったりしやしない」
一度食われましたが・・・じゃなくてお願いして食ってもらいましたけどね。


引きつった顔の私を強引に会社から引っ張り出して、居酒屋に入る。
なんだか過去の嫌な記憶がよみがえってきて、私の頭はクラクラしていた。
話とはなんだろう、じっくり話をしないといけないってどういうこと?
まさか仕事があまりにも出来なさすぎる・・・からお怒りとか?
目の前には無表情の沢村係長。あの、会社での優しいお顔はどこへ行ったのでしょう?

「美絵チャン、乾杯」
「は、はい。お疲れ様デス」
私には有無を言わせず勝手に注文されたビールで乾杯。
なんで私はここにいるのでしょう。
確か残業だと告げられたハズなんですが。
残業を告げた上司と一緒に乾杯。なんの乾杯かわかりませんが。

「何をそんなに怯えているのかな?」
「え、べべべべつに、怯えてなんか・・・」
蛇に睨まれる気持がよくわかります。
「ふーん。まあ、俺は怒ってるからな」
いきなり係長の口調が変わる。
「え・・・そ、それはどうして?」
何かとんでもない失敗でもやらかしてしまったのだろうか。
「どうしてだと思う?」
「仕事がトロいから・・・?」
「・・・」
無言の圧力。
冷たい視線。
怖いデス。
とりあえず怖いデス。

「1年ほど前、見知らぬ女にコーヒーぶっかけられ、別の見知らぬ女の愚痴を散々聞かされたあげく、ヤリ逃げされたんだよ、俺は」
「や、ヤリ逃げッ!?」
思わず大声でオウム返ししてしまい私は慌てて口をふさぐ。
店内の賑やかさでかき消されてしまっていたようで、とりあえずほっとする・・・じゃなくて、ヤリ逃げって。
そんなこと・・・した?私・・・。ヤリ逃げになるの、アレは!?
「ック・・・百面相してる。おもしれー」
「なっ」
係長がヤリ逃げとか言うからでしょー!!
と叫びたいのを必死で堪える。
「ハハハ、今度は口パクパクさせてやんの。鯉みてー」
「!?」

な、なんて人なの!
こんな人だったっけ。
確かに強引なトコロはあると思っていたけど、初めて会ったあの日は優しかった。
オマエオマエと口は悪くはあったけど、私のわけのわからない愚痴を真摯に聞いてくれたし。
会社でだって確かに他の人より私はこき使われてる感じがあったけど、優しいところはあったから。
まさかこんな、性格悪い人だったなんて!

「責任とってくれるんだろ?」
「ええ?」
責任!?責任とってって、なんだか立場が逆なんじゃあ・・・普通は女の人のセリフじゃないの!?
いや、そりゃ確かに私からお願いしたわけで。
バージン奪ってください!なんてめんどくさいお願いだったのかもしれないけど・・・。
「せ、責任ってどうやって・・・」
「結婚でもするか?」
「けっ・・・けっ・・けっこん!?」
なんでいきなり結婚なんて言葉が飛び出してくるのよっ。
「美絵はあの夜のことを一夜限りの綺麗な思い出にするつもりか?」
み、美絵!?呼び捨てですか!!
「え、そ、それは」
「ふーん。そういう軽い女だったのか」
「い、いや・・・ちがっ・・・」
「そうだよな?軽い女だったらあの日までバージン守り抜いたりしないよな?」
え、笑顔が怖っ。
確かに自分で軽い女だとは思ってないけど。
けれどそう言う問題ではなくて、やっぱりあの日のことは思い出したくない。

「あ、あの日は自分が自分じゃなかったというか・・・どうでもよかったというか・・・」
「どうでもよくて俺を利用したわけ?ふーん」
「ち、ちがっ」
声を出せば出すほど墓穴を掘っている自分に焦る。
「すみません」
「それは何に対する謝罪?」
「いろいろです。あの日の私やっぱりどうかしていたんです。でもいい加減な気持だったわけじゃなくて、沢村係長に優しくしてもらえたのが嬉しくてこの人ならいいって思ったのは事実です。本当に軽い気持だったわけじゃないんです」

私は観念して正直に言った。
怖くて顔を上げられず、私はしばらく下を向いていた。
すると頭を軽くこんっと叩かれる。
おそるおそる顔を上げると、すぐ目の前に係長の顔が乗り出していた。
「うわっ」
思わず顔を後ろに引くと、係長はにっこり笑った。
「素直でいいじゃん」
「え、えっと」
「じゃあ、とりあえず、俺の彼女から始めてもらおうか?」
「えっ、えっ?」

なにがなんだかわからず私は混乱する頭を抱える。
私何か変なこと言ったっけ?
「謝罪は受け入れる。だけど責任もしっかりとってもらうからな。」
「ええええ!?」
「あー、もしかして彼氏いるのか?」
「い、いえ。いません」
「あの日からずっと?」
あの後、彼氏とはすぐに別れた。というかあそこまで酷い仕打ちをされて付き合ってはいけない。
「ハイ。ずっとです」
「ふーん」
ぎゃあああ。なんか怖い笑顔だ。これは絶対何かたくらんでる。
「美絵」
「な、なんでしょうか?」
「週末、あけとけよ」
「・・・・・・ハイ」
あの。
本当に、おつきあいするのでしょうか、私たち。

怖くてもう聞けない。





  




   



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