「重そうだね、持つよ」

3限、世界史の授業で使った地図帳を引きずるように運んでいると、後ろから声が聞こえた。振り向かなくても誰だかわかる。

「資料室まで?」
「うん、ありがとう」

隣を歩く天野先生の表情は硬い。それでも一緒に歩けるとなんだかほっとする。
資料室までの距離はあまりにも短すぎて、もっと一緒に歩きたいな、なんて思ってしまう。

「その後、どう?」
「うん、大丈夫。25メートル泳げるようになったら何も言われなくなった」
「ならよかった」

散々愚痴っちゃったからな。
でも、実は泳げるようになったらなったで、今度はタイムが遅いとかウダウダ言われてることは内緒。
あまり心配かけたくないし。

「ねえ、先生」

あたしは周りに誰もいないことを確認する。

「週末、おじいちゃんとおばあちゃん泊まりで旅行なの。先生のとこ行っていい?」
「だめ・・・と言いたいところだけど、誰もいないなら仕方ないな」

ほんの少しだけ笑みを浮かべた先生に、あたしは思いっきり笑顔を向けた。

「じゃあ、教室に戻るね!」

身体の向きを変えて歩こうとしたその瞬間、あたしの手首は先生の大きな手のひらに掴まれていた。
ヒンヤリとして冷たい手の感触。
あたしはゆっくりと振り返る。
まっすぐにぶつかる、先生の真剣な瞳。

「美月」

名前を呼ぶ声に、一瞬時が止まったかのような感覚に陥った。
けれどすぐに遠くから聞こえてくる女生徒の甲高い声に打ち消された。
先生はゆっくりと手を離すと、そのまま何も口にすることなく去っていった。
後ろ姿をほんの少しだけ見送って、あたしも教室に戻った。高鳴る鼓動を必死で抑えながら。

先生はまだお母さんのことが好きなんだろうか。
お母さんがいなければ、あたしと先生の関係なんてとうになくなっていたはずだった。
先生がいまでもあたしに優しくしてくれるのは、あたしがお母さんの娘だから。それはわかっている。

先生はあたしのことどう思ってる?
それは怖くて聞けない。

「美月、次移動だよ」
「あ」

教室の前で絵梨が二人分の教科書を手に待っていてくれた。

「ありがと、絵梨」
「さっきさ、イヤなこと聞いちゃったわ」
「なになに?」
「原田さー、けっこう生徒と噂、あるみたいよ」
「え?原田先生?」
「そう」
「まじで?」
「あんなセクハラ教師噂になってもおかしくないけど。ベタベタ触りまくってさ」
「だよねー」
「美月も気をつけないと。目、つけられてるし」
「あたし?まさかぁ。水泳部とかじゃないし、水泳の授業終わったら、会うこともないよ。こんな広い学校で」
「それもそっか」

触れる。
先生の冷たくて大きな手の感触がまだ残っている。
天野先生に触れられるのは、安心できるのに。
原田先生は、ただ気持が悪いだけだ。
どうして、こんなにも違うのだろう。

先生、か。


その日の放課後、なんとなく図書室で卒業アルバムをめくっていた。
原田勝。
今よりも随分若い姿を、あたしは発見した。

私立だから、移動とかがないのだ。

もしかしたら、あたしのお父さんは、『先生』っていう可能性もあり得るんだ。



    



   




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