地学講師室を出て、腕時計に目をやる。あと10分。もう少しいても良かったかな、なんて思いつつ教室に戻る廊下をのんびり歩いていると職員室に行っていたであろう柴田君と鉢合わせする。

「あ、呼び出し?」
柴田君はクラス委員をやっている。

「そう。交流会の資料」
「あー」

月ヶ原学園の生徒は半端なく多い。普通科の他に芸術科、体育科、家政科、農業科がある。専攻科が違えばなかなか触れあう機会がない。というわけで1年のはじめに交流会という行事がある。ようやく学校に慣れ始めてきたこの時期に青少年の家みたいなレクリエーション施設に1泊し、アクティビティをしたり、夜にはそれぞれ自分たちの専攻科の楽しいところや大変なところなんかを紹介しあい、ゲームなんかもする。なかなか楽しい企画。
いきなりカップル誕生なんてこともあるらしい。


「放課後、大変だね」

その言葉だけで、彼が水泳の補習のことを言っているのだとわかる。うん、ホントだったら大変なところだった。

「ふふふ、実はね顧問の先生に部活理由で今日の補習はできないって伝えてもらうんだ」
「うわ、まじで?そーゆうことできるんだ?」
「まあね」

この学園のいいところは部活動も教育の一環だということ。
だから全生徒どこかの部に入部しなければならないし、授業と同等の扱いも受ける。入らなくていいのは生徒会役員だけ。

「何やってるの?」
「園芸部」
「園芸部なんてあったんだ」
「うん。マイナーだし、部員も少ないけど。学校の庭園を管理してるのは園芸部だよ。」

そして顧問は天野先生。
先生が顧問だと2人で話をしていても怪しまれないし、なんて理由もあるけど、あたしは花を植えるのがけっこう好きなのだ。水は嫌いだけど、土は好き。ガーデニングの本も買いそろえてたりするくらい。

「柴田君は水泳部には入ってないの?」
「あー、うん。髪のばせないし、厳しいし。新しいことにもチャレンジしたいしね」
「そっか」

柴田君の顔色が少しだけ曇ったことに気づいて、あたしはそれ以上何も言わなかった。



もう少しで、教室、というところで柴田君は立ち止まった。

「あー、もし。いや、もしさ、よかったら・・・」
「ん?」
「泳ぐの教えてあげようか?」
「え?」

それは突然。
そりゃあ、柴田君みたいな人に教えてもらえたら言うことないんだろうけど。

「でも、迷惑でしょ?」
「いや、俺さ。週に1度くらいは市民プールに行ってたりするから、もしよかったら一緒に行くかな、と思って。だから別に迷惑とかじゃないよ」
「教えてもらえるならすっごく嬉しいけど」
「それにほら、7月にグループ対抗戦もあるから、咲原さんには頑張ってもらわないと」
「・・・しーばーたーくーん」

そうよね。あたし1人のせいで成績下がっては大変だものね。

「はは。それは冗談だけど。でもほら原田先生に目をつけられると大変らしいし」
「そうなの?」
「うん。呼び出しくらったりとか個別レッスンとかあるらしいよ」
「あ、それはイヤだな。てか、そんなの水泳部だけにしてって感じよね」
「確かに」

でもあのセクハラ原田も意外にもてるらしいから謎だ。
30代後半なのに、けっこう若く見えるトコとか、水泳をやってるだけあって身体つきががっちりしていて綺麗だとかいうけれど。


「美月ちゃーんてば、柴田くんといい感じじゃないの」

教室に戻ると、窓際で手を振ってる絵梨を見つけて、近寄るとイキナリそんなことを耳元でつぶやかれた。

「たまたま廊下で会っただけだって」
「そお?」
「あ、でも泳ぐの教えてもらうことになったんだよね」
「あら。アンタ、女の子敵に回すわよ」
「そうよね。ばれないようにしなきゃ。ってかどうしても25メートルは泳げるようになりたいのよぉ」

じゃなきゃ、あの原田の餌食になる。

「そういや言ってきたの?天野先生に」

絵梨も遠目から見て、さすがに気持ち悪いと思ったらしい。
だってほら、腕使いがおかしいとか、息つぎが下手だとか言って、触りまくられたから。

「うん。延々と愚痴るのをいつものごとく静かに聞いておられたよ」
「あはは。美月には逆らわないことが一番だと思ってるよね」

絵梨だけがあたしと先生のことを知ってる。

「でも、柴田君か。いいんじゃない?なかなか」
「そんなじゃないって」
「『先生離れ』させてくれるかもよ?」
「絵梨ってば」

そうなのだ。
先生はいつか離れていく。
いつまでもあたしの側にいて優しくしてくれるわけじゃない。
いつか、先生にも新しい恋人ができて、結婚したりすることになる。
そうなったとき、あたしは笑顔でおめでとうって言ってあげたいから。

だけど、もう少しだけ。

もう少しだけ、あたしだけの先生でいて。



    




   



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