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あたしは知らない道を歩いていた。
都会では煩わしい蝉の声も、なぜか心地よく感じてしまうのは、この場所があまりにも緑溢れているからかもしれない。
空を見上げると果てしなく青い。
入道雲が地平線に浮かんでいる。
まるでどこかの写真家が撮った優しい風景が目の前に浮かんでいるようだった。
「咲原美月さん?」
声の主は穏やか笑顔を向けてくれた初老の女性だった。


「あの、すみません、突然」
「いいえ、いいのよ。時々ね昔の教え子が訪ねてくれることがあるのよ。それがとても嬉しいの。でも、教え子のお子さんが訪ねてくるのは初めてよ。田舎だからビックリしたでしょう?」

吉井花恵さんはくすくすと笑いながら言った。
あたしは目の前に差し出された麦茶のガラスコップを見つめた。
誰にも何も言わずに、ここまで来てしまった。
お母さんの高校時代の担任の先生、吉井花恵さん。
先生が調べてくれた、連絡先を握りしめて。

「テレビでの訃報を見てビックリしたわ。哀しい思いをしたのね・・・」
それはお母さんの突然の死を意味しているのだとわかって、あたしは軽く頷いた。
「でも、支えてくれる人がいましたから」
あたしは強がりでもなんでもなく、そう答えた。

「美和子さんにそっくりね。10数年前に時間が戻ったみたい」


数日前に、あたしは勇気を出して受話器を握った。
何度も何度も番号を押して、最後の数字を押せずに切って。それを何度繰り返しただろう。

「母のこと覚えてますか?」
「ええ。よく覚えているわ。とても印象的な子だったから。それにとても美人だったから教師の間でもよく話題に上っていたわね」
「そうですか」
もしかしたらそんな昔のこと覚えてない、そう一言言い切られたらどうしようと。
「でも、残念ながら美和子さんのことよく知っている、というわけではないのよ」
「え・・・」
「美和子さんは芸能コースのクラスになってから、お仕事も増えたし、学校へ来る日数も減ってしまったから」
「電話でもお話したように、母は、あまり学生時代の話とかしてくれませんでしたから、少しでもいいんです。私、母の辿った道を知りたくて」
「そうね、お気持ちはよく分かるわ。私も写真なんかを見ながら思いだしてみたりしたのよ。小さなことばかりになってしまうけど、いいかしら?」
「はい!もちろんです!」

花恵さんは優しげな瞳をあたしに向けてくれた。
そしていろんな話をしてくれた。
仕事で忙しい中、演劇部の勧誘に断れなくて文化祭で主役を演じたこと。
人気はあったのに、謙虚で真面目だったこと。
友達と賑やかに騒ぐのは苦手のようで、いつも仲の良い友人と静かに話をしていたこと。
なかなかでれない授業でも、出られる日はしっかりノートを取って、テストではそこそこの成績をとっていたこと。
花恵さんは知っている限りのことを一生懸命話してくれた。
初対面のあたしに。
イヤな顔ひとつせず。



「今日は本当にありがとうございました」
あたしは深々と頭を下げた。
「いいのよ。久しぶりに若いお嬢さんとお話できて私も楽しかったわ。ほら、こんな場所だからね、主人と二人じゃ刺激もないでしょう?」
花恵さんはいたずらっぽく笑って言った。

歳をとってもかわいらしい方だから、若い頃はさぞかし綺麗な人だったのだろう。
花恵さんに見送られながら、あたしは傾きかけた太陽を背にゆっくりと歩き始めた。
外に出るといっきに暑さがおそってきたけれど、あたしは花恵さんに淹れてもらった冷たい麦茶の味を思い出していた。
知らない母の姿を少しだけ知ることができて満足している自分と、結局父親のことは何も分からなかったと妙に安心する自分が7対3くらいの割合で混在していた。

ふと、花恵さんの言葉が浮かんでくる。
『原田先生は美和子さんのファンだったのよ。女優業より水泳を頑張って欲しかったみたいね。でも、彼女は芸能界を選んでしまったから』
最後の方に聞いた言葉。
原田先生はお母さんのファンだった。
芸能人としてのお母さんではなく、水泳をやっているお母さんの。
あの人はお母さんの何を知っているのだろう。
あたしのお父さんのことを本当に知っているのだろうか。


帰りの電車の中でうつらうつらとしていると、電車が止まり、突然の社内アナウンスでたちまち現実の世界へと戻される。

『ただいま、この先の風鈴が丘駅で人身事故が発生したため運転を見合わせております。詳しいことが分かり次第お知らせいたします。お急ぎのところご迷惑おかけいたしますがもうしばらくお待ちいただきますようお願いいたします』

あたしは窓の外が暗くなっていることに気づいて急いで腕時計を見た。
7時過ぎ。
まずい。
この先2、3駅なら歩いて帰ることもできるけれど、7駅ほどあるからさすがに無理だ。暗くなっては地理もよくわからないし。
特に門限なんてものはないけれど、たいてい遅くても8時までには帰っているし、それ以上に遅くなるときは連絡するようにしている。
せめて駅で止まれば降りることもできただろうけど、完全に駅と駅の間で止まっているらしい。
周りの人たちはケータイを取り出して連絡している。

あたしは・・・携帯電話を持っていない。
小学生の頃は持ち歩いていたくせに、今はあまり必要性を感じないのと、人とのやりとりが煩わしくて解約してしまったのだ。
あの頃はお母さんがいたから、お母さんとの電話やメールのやりとりがほとんどだった。使っていた携帯電話は今も机の中に大事にしまってある。
こういうときは、持っていればよかったな、と思うけれど。

「はあ」

軽くため息をついたところでいきなり電車が動き出す。
アナウンスによると次の駅まで動くようだ。

あたしは初めて降りる駅で、急いで公衆電話を探した。
まったく、携帯電話が主になってきたからって公衆電話を減らすことってないと思う。地震が起きたら一番つながりやすいって言うのに。

『あらそお。まあ気をつけて帰ってきなさいな』

やっとこさ見つけた公衆電話で急いで自宅に電話すると相変わらずあっけない、おばあちゃんの声。いちお、女子高生なんだし、心配はないのかしら。
いや、それだけ信頼されてるってことだから、いいのかな。

『そういや、祥吾さんから電話あったよ。美月から連絡しときなさいな』
「え、先生から。わかった」

マズイ。こっちの方が明らかにマズイ。
おばあちゃんとの電話を切ってから、あたしはおそるおそる、覚えてしまった先生の携帯電話の番号を押した。
ワンコールで聞こえてくる、先生の、声。
早すぎだよ、先生。
しかもなんで公衆電話からなのにあたしだって分かるんだろう。

「美月、今どこにいる?」

ハイ、とかモシモシじゃなくて第一声がそれって一体なんなの。




   



   


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