綺麗な女性(ヒト)がいた






『あたしの命はあと半年あるかどうかわかりません』

冗談、には聞こえなかった。

暑い、溶けるように暑い夏の日だった。
薄い水色一色のワンピースに包まれた、小さな少女の瞳は、その日の太陽のように熱く、燃えるようにギラギラと輝いていた。
その挑戦的な瞳に浩介は一瞬にして囚われた。

「あたしの死ぬまでの写真を撮って下さい」

この一言に圧倒され、浩介はしばらく何も言うことができない。
彼女はとても美しい少女だ。
腰まで伸ばした長い漆黒の髪も色白の肌によく似合っていて、綺麗だった。

マイナーな写真家である、しかも人の被写体は使ったことのない浩介のことをどこで調べたのかは解らなかったが、浩介は彼女の申し出を断ることができなかった。
全くの初対面で、浩介が彼女に尋ねたのは名前と歳、そして両親はこのことを知っているのかどうか、ということだけだった。
彼女はアヤと名乗り、17歳だと言った。
意外にもアヤは自分から親の承知を得てきているということを話し、自宅の住所と電話番号の書かれた紙を渡してきた。
その書かれた番号に連絡をしてみると、なんらあっけない返事が返ってきた。

「後悔のない人生を娘に。私たちが願うのはそれだけです。ご迷惑をおかけしますが、貴方が受け入れてくださるならば娘のわがままに付き合っていただけないでしょうか」

その母親の言葉に断る理由はなくなった。


それからアヤとの共同生活が始まった。世間一般から見れば少し異常なことかもしれなかったが、一回り近く歳の離れたアヤにどうこうするといった、卑猥な考えはまったくなかった。
確かに被写体としての彼女には一瞬にして捕らわれはした。しかし一人の男として、まだ少女にすぎないアヤを愛するということはその時の浩介には考えられないことだった。
ただ彼女を撮りたい、その気持ちが大きかった。

「コーちゃん」

アヤは浩介をコーちゃんと呼んだ。人なつっこい笑顔がいつもの強く激しい瞳からは想像できないくらい可愛らしく、また魅力的に感じた。アヤは実際の年齢よりも幼く感じられたが、そんなところはなおいっそう少女だな、と感じられる。

「今日も仕事?」
「うん。でも昼までだから」
「じゃあ、あたしがお昼を作って待っててあげる」

アヤは時々妻のように振る舞ってみせた。まさしく幼妻だ。
アヤはいつかこんな風にしたかったのかもしれない。

浩介はアヤの見せる様々な表情を撮り続けた。
一生懸命に慣れない手つきで料理をするアヤ。
テレビに魅入ったまま動かないアヤ。
庭で花の世話をするアヤ。
ソファで昼寝をしているアヤ。
時にはモデルのようにポーズを決め、燃えるような瞳を見せるアヤ。
すべてのアヤは美しかった。
細い儚い手足がしなやかに動く瞬間をビデオに撮ったこともある。


アヤはその頃、学校へは浩介の仕事のある日に暇つぶしに行く程度だった。学校よりも彼女は浩介との時間を大切にした。
まるで恋人であるかのように。



そんなある日のことだった。
一人の少年が浩介の元へ尋ねてきた。

「こんにちは。ここにアヤが滞在していると聞いてお伺いしたのですが」

今時の高校生にしては行儀のよい清楚なしゃべり方をした。幼い表情がまだ少年で、でも大人びた雰囲気ももっている。どこかアヤと似ていた。

「アヤのクラスメートの津多拓也といいます」
「ああ、アヤなら今テレビを見ているよ。どうぞ、上がって」
「はい。すみません」

拓也と名乗った少年は丁寧に靴をぬぐと、その靴を両手で揃えて置き直した。
アヤは拓也の姿を見つけると、ぴょこっと立ち上がると、にっこり微笑んだ。

「拓也、来てくれたんだ」
「プリント預かってきたんだ。文化祭のね」
「ありがとー」
「練習にはちゃんと出てこいよ」
「へへっ、わるいわるい」
「その顔に反省の色は見られないな」
「あ、バレた?」

なんだろう。この奇妙な疎外感は。
浩介は二人の会話に小さな苛立ちを感じながらも、自分の感情に背を向けながら冷蔵庫から十分に冷えた麦茶の瓶を取り出し、二つのグラスコップにそそいだ。
ソファに座って楽しそうに学校のことについて会話しているアヤを見るとなんだか別の世界の少女のように思える。
さっきまでは、頑固だが可愛らしい行動を浩介だけにふるまっていたのに。

「大丈夫よ。セリフだけは完璧に覚えていくからさっ」
「期待しておくよ」
「あ、ありがとー、コーちゃん!」
「あ、どうもすみません」

麦茶を二人の前のローテーブルに置くとと明るい笑顔が返ってきた。浩介は、もう少し若かった頃、社交辞令で使っていた笑顔と同じ笑顔を二人に向けた。
津多拓也と名乗った少年はアヤと15分程度喋ると、塾があるからと部屋を後にした。来たときと同じように行儀良く頭を下げ、挨拶をし、出ていった。

テレビの音だけが部屋の中に残る。
浩介はアイスコーヒーを片手にアヤのとなりに腰掛ける。
その瞬間、くんくんと鼻のきかせたアヤが浩介の方に振り向いた。

「あー。一人だけせこーい。あたしたちは麦茶でコーちゃんはコーヒー!?」
「子どもは麦茶でじゅーぶん」

ノースリーブのピンクのTシャツと半ズボンとめずらしくスポーティな格好をしている。
浩介はアヤをじろじろと眺めた。

「な、なによ!」
「いや、涼しそうな格好だな、と思っただけ」
「やな感じー。いやらしいオヤジにしか見えないよ」

つんと針を突き刺すような言葉を残して、アヤは自分の分のアイスコーヒーを作りに、すたすたとキッチンに向かった。
冷蔵庫のパックのコーヒーを取り出し、がぽがぽとチューリップ柄のガラスコップ流し入れる。半分くらいまで入れると、次は牛乳だ。さすがにアヤは浩介と同じようにブラックでは飲めない。

「どーせオヤジですから」

アヤがもとの位置にストンと座るとボソリと浩介が呟く。

「コーちゃんはオヤジなんかじゃないよ!あっ」

思わず本音を吐いて、しまった・・・と思うアヤを見ながら浩介はにやにやしながら眺めている。

「やなカンジー」

アヤはそっぽを向いて自分で持ってきたミルク入りアイスコーヒーをごくごくと飲んだ。そんな拗ねたところを見ているとさっきの苛立ちがいつの間にか消え失せていた。

「演劇でもやるのか?」

アヤがアイスコーヒーのグラスコップを口から放すと同時に浩介は尋ねた。

「さっきシナリオがどうとか言ってただろ」
「う・・・ん。でも乗り気じゃないんだよねー」
「良い役がもらえなかったのか?」

プライドの高いアヤのことだから、と浩介は心の中で一瞬考えた。
アヤと一緒に暮らしているうちに、アヤの性格はだいたい把握していた。
子どものくせに大人びたコトを言ってみたり、生意気な口調で命令してきたり。
慣れてくると、アヤの気の強い本性はなかなか手強いものだ。しかし自分の彼女ならばおそらく苛立っていただろう態度もアヤならば可愛くさえ思える。

「主役だよ」
「…」

一瞬、空白の時が流れる。

「凄いじゃないか」
「でもねぇ」

アヤは浮かない顔を崩そうとしない。

「相手役が悪いとか?」
「相手はさっきの拓也だよ」

クッションをぎゅうっと握りしめながら、憂鬱そうな表情はますます雨降りになっていく。

「ただ・・・」
「ただ?」
「役柄が気に入らないの」
「どんな?」

両肩をぐいっとあげると、退屈そうにシナリオをぽいっと投げるように、浩介に渡した。

「意地悪な継母に痛めつけられる儚い少女が、妖精の国の王子様に助けられ、めでたしめでたしって話でー」

アヤはよくあるシンデレラストーリーよね、と大きくため息をついた。
浩介はパラパラとそのシナリオを眺めながら、ふぅんと相づちをうつ。

「で、その儚い少女がアヤ?」
「そう」
「主役なんて滅多にもらえるもんじゃないぞ」
「キャスティング間違ってると思うわ」

アヤの耳には浩介の言葉なんか入っていないらしい。

「あたしのどこが儚い少女?意地悪な継母の方がよっぽど合ってると思う」

確かに儚い少女じゃないな、浩介もちらりとアヤの姿態を見て思った。
細いからといって、アヤは儚げではない。

「ま、でも役者を目指すあたしとしてはせっかくもらったヒロインの座を無下にはできないわ。どんな役でもなりきらなきゃね!」
「そうそう」

と頷いてみるが、浩介の脳裏では別の考えが浮かぶ。シンデレラ的な洋モノよりは純日本の方がいい。着物や浴衣なんかを着て、花魁なんてもののほうがしっくりくる。
まだかぐや姫という方が似合っているだろう。
アヤは幼いその顔立ちながらもどこか色っぽさを持ち得ている。
浩介はふっと微笑みながら、そんなことばかり考えていた。
いやらしい意味では決してなく、カメラマンとして被写体が最高に輝く瞬間を求めるのは面白い。アヤは綺麗だ。素のままでも十分美しい年頃であり、どんな格好をしていてもすべて絵になる。

「まぁ、当日はカメラを持って美しい少女を撮ってあげるよ」
「うん」

にこっと笑ってそういう彼女に、浩介は思わずどきりとした。
アヤは、もともと細かったけれど、こんなにも細かっただろうか。




秋風も静かに吹くようになる頃、アヤは忙しい日々を送るようになった。
アヤにしてはめずらしくクラスの行事にも参加したり、友達と遊んだりするようになっていた。
もちろん浩介は、そんなアヤをよく撮りに学校へ同行した。
自分の命が後少ししかないと、言って自分の前に現れたときよりも、もっと魅力的になっていくアヤを、あの細い手足が、ますます細くなっていくアヤを、撮らなければならなかったのだ。

「コーちゃん、あたしね、女優になりたかったの」

写真の整理をしていると、ふいにアヤが言った。
その頃、浩介は自分の仕事よりももっぱらアヤを撮ることに時間を割いていた。人物を撮ったことがほとんどなく、苦手としていた浩介がのめり込んでしまえるほどの魅力をアヤは持っていた。

「アヤならなれるさ」
「そうかなぁ?」
「アヤはキレイだから」
「本当?」
「ああ」

浩介の背中からアヤは抱きついた。

「どうした?そろそろ寝ないのか?」
「コーちゃん」
「ん?」
「あたし、コーちゃんがスキ」
「・・・アヤ」

浩介は驚いてアヤの方へと振り向いた。
アヤはそっと浩介の体から手を離した。
真剣な瞳だった。迷いのない、澄んだ輝き。
浩介はアヤの長い漆黒の髪をそっと撫でた。あどけなさを残す少女にのめりこんでいく感情を恋愛だとは思いたくなかった。
けれど、これまでの人生で浩介の心の奥底にまで入り込んできた女性はアヤ一人だ。
浩介はそっとアヤの細くしなやかな身体を引き寄せた。
そしてピンク色のふくよかな唇をなぞるように指で触れた。

「アヤ・・・」
「コーちゃんは、あったかいね」

浩介の腕に包まれながら、アヤは何度も『あたしを忘れないで』とつぶやいた。


文化祭もあと十日とせまった紅葉真っ盛りの日、アヤは倒れた。

浩介はその日から仕事も放り出して毎日のように病院へと足を運んだが、まもなくしてアヤは静かに息をひきとった。
両親に見送られて苦しむことなく逝った。


アヤがシンデレラになることは終になかった。

まるで眠るように微笑む彼女は、とても綺麗だった。



浩介の撮った多くの写真が飾られた祭壇は、アヤの笑顔で溢れていた。

人波が途絶える頃、後ろの方で佇んでいた浩介の元にアヤの母親がやってきた。
涙はなく、凜とした姿はやはりどこか似ていて、持っている雰囲気はアヤの母親だと感じられた。
成長し大人になったアヤはきっとこんな風だったかもしれないとぼんやり考えた。

「アヤの夢を叶えていただいてありがとうございました」
「いえ、彼女の夢までは叶えられませんでした」

アヤの母親は浩介に深々と頭を下げた。このような日に忘れられていても仕方がないと思っていたので意外だった。

「いいえ、あの子の夢は女優になること。あなたは叶えてくれました。ここに飾られたアヤの写真。アヤは私たちの前でこんな風に笑ったことなどありません。あの子はあなたの前ではちゃんと女優だったんだわ。いえ、あの子が本当の姿を見せたのは貴方の前だけだったのかもしれませんね」

アヤは浩介の前だけ、本当の笑顔を見せたのだろうか。
どんな思いで微笑んでいたのだろうか。
普通ならば当然のように約束された真っ白な未来を、アヤは約束されなかった。
『死』という残酷な未来を宣告され、
その短い時間を精一杯生きたのだ。

「・・・私はただ、彼女の美しい姿を撮りたかっただけです。これを・・・」

浩介はできあがった、アヤの写真集を母親へ差し出した。
今日渡せなければ郵送するつもりでいたものだ。

「これは・・・」

アヤの母親の目に光の粒がかすかに浮かぶのがわかった。
この世にたった2冊だけの写真集。
1冊はアヤのために。
もう1冊は自分のために。
アヤに渡すはずだったアヤの写真集は今はもう、彼女の両親が持っているのが相応しい。

「ありがとうございます」

母親がもう一度頭を下げると同時に、浩介も頭を下げた。
アヤ。
君の夢は本当に叶えられたのか。
どんなに問うても、返事は返ってこない。
浩介はゆっくりと踵を返した。

真っ青な秋空の下、一人歩く。川縁の石段に座り込むと、礼服のポケットに忍ばせていた一枚の写真を取り出した。
アヤが倒れる前に、最後に撮った写真だった。
誰も知らない、自分だけのアヤ。これだけは浩介のものだ。
豪奢なデザインの振り袖を着て、凛と佇むアヤ。その表情は普通の女子高生とはとても思えない。

「やっぱりアヤには純和風が一番似合う」

そうつぶやいて、空を仰いだ。
どこまでも続く青い青い空がアヤを見送る。


アヤ、君に出会えてよかった。





その後、浩介は世界を飛び回り、少年少女たちの生きる姿を撮り続けた。その多くの写真は人々の心を強く惹きつけるものとなり、浩介はフォトジャーナリストとしていくつもの賞を受賞した。

彼はとある雑誌のインタビューでこう語っている。


『綺麗な女性がいました。彼女がいつも背中を押してくれているんです』





    



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