冬の小鳥





翌朝、いつものように休憩室には彼がやってくる。
気恥ずかしさもあったけれど、忘れないうちに、とお金を返そうとした。

けれど、速人さんは受け取ってはくれなかった。




「最近、変な男につきまとわれてるでしょう?」
「え?」
大沢課長にお昼を誘われて、一緒に社外に出るとそんなことを言われたので、一体なんのことだろう、と不思議に思った。
変な男?
「一応、イケメンの上司?というのかしらね。」
ふふ、とどこかいたずらっぽい笑みを浮かべる大沢さんに、私はもしかして副社長のことだろうか、と考えた。
「つきまとわれて・・・はないと思います。たぶん。」
「そうかしら?ならいいんだけど。社長がね、最近副社長が凄い勢いで仕事を終わらせてるって怪しがってるのよね。」
「そうなんですか?」
「そうなのよ。」
でも、仕事をするのは悪いことじゃない・・・と思うんだけど。
それに朝は一緒に時間を過ごすけれど、仕事の後はまっすぐ家に帰るし、午後から顔を合わせるなんてまれにあるくらい。
大沢さんが何を言わんとしているのかいまいち掴めず、私はとりあえず頷いておく。


大沢さんのいきつけのお店、というこじんまりとした洋食屋さんで、わたしはオムライス、大沢さんはハンバーグ定食を頼んだ。
穴場なのよね、と話をする大沢さんの言うとおり、うちの社員はきっと知らなさそうで、また女性客しかいなかった。

「彼ね、あなたに会いたくて、しょっちゅう経理課まで顔出すのよ。」
「・・・え?」
彼ね、というのが”副社長”をさしていることはわかる。
今日の大沢さんは速人さんの話をするためだけに私を誘ったのだとなんとなくわかった。。
「わたしと噂になるくらい経理課に来てるでしょう?あなたと挨拶できた日にはそれはもう上機嫌でねぇ。ホント面白いわ。」

・・・。
そんなこと全く知らなかった。
私は思わず顔を赤らめてしまう。
まさかあの速人さんが・・・?
ただ、大沢さんとは仲がいいだけではなかったの?

「彼はきっと本気だと思う。だから、あなたには彼の噂なんかに惑わされないでほしいなと思って。」
「・・・。」
その瞬間、もしかして大沢さんは・・・。
「副社長のこと・・・好きだったんですか?」
思いっきり思ったことを口にしてしまって、はっと気づく。
彼女はもう結婚しているというのに。
でも大沢さんはニッコリ笑ってはっきりと否定した。
「友人として心配なだけよ。わたしは彼の友人の一人と結婚してるの。その主人は今、大阪で単身赴任中なんだけどね。副社長はいろいろ複雑な家庭環境で育ってるから、二人でいつも幸せになってもらいたいと思ってるのよ。」
速人さんはお父さんから暴力を受けてたというようなことを言っていた。
両親が離婚して、きっといろんな苦労をしたに違いないとは思っていたけど。

「まだ公にはできないんだけど、わたしね、来春には退職して主人のいる大阪に行こうと思ってるの。」
「え!?」
「最初はお手伝い的な感じで会社にいて、軌道にのるまでは、と思って一緒に頑張ってきたの。でももうその必要もなくなってきたわ。優秀な社員がたくさん入ってきたしね。」
「そんな・・・。」
「ごめんなさいね。勝手なことばかり。あなたにもいろんな事情があるだろうし、答えはあなた自身が出すべきことなのはわかっているの。だから、わたしの言ったことは単なる参考として聞いてもらえたなら助かるわ。」

大沢さんとは課の飲み会行事や、お昼に課の女の子たちだけでランチしたりと一緒に食事をしたり話をする機会はたくさんあったけれど、こんな話をするのは初めてだった。
きっと、大沢さんはもうすぐ会社を去ることになるから・・・友人である速人さんのことを心配しているのかもしれない。

「彼は、多くの苦労をしてきてるから、人の痛みをちゃんとわかってあげられる・・・本当は繊細な人。あんな風にしてるから誤解されやすいけれどね。」
繊細な・・・。
確かにそう言われてみればそういうところもあるような気がした。
「・・・噂のことは聞きました。」
「あら、そうだったの?彼、あなたにはちゃんと否定したのね。」
大沢さんは嬉しそうにそう言った。
「どうしてかしらね、松井さんには彼と同じ空気を感じる時があるわ。だから、わたしは勝手にお似合いの二人だわ、なんて思ったりしてるのよ。」
「お似合い・・・でしょうか?」
「ええ、とっても。」
大沢さんが心の底からそんな風に言ってくれているのを感じて私は複雑な気持ちだった。



それから数日後の土曜日、いつものようにキッチンに立って食事の準備をしていると、珍しく母が声をかけてきた。普段あまり多くをしゃべらない母だけれど、別に母のことは父ほど嫌ってはいない。
「紀美香の会社の副社長さんていい方ね。」
なんて突然言われるものだから、私は剥いていたじゃがいもの皮をボトッと落としてしまった。
なんとなく、最後まで綺麗に剥くことが好きな私は思わぬ失態にちょっと戸惑う。
「どうしたの?急に。」
「紀美香の残業で遅くなる日には必ず彼、連絡くださるのよ。」
「ええ?!」
そんなこと全く知らない。
毎朝会っているのは変わっていないけど、その時にもそんなこと聞いたことがなかった。
確かにそう言えば、残業のある日に父の小言が減ったなぁなんて思っていたけど。まさか速人さんが連絡を入れていてくれたなんて。

「彼のこと・・・好きなの?」

母が聞いてくる。
顔は合わせず俯いた。
じゃがいもの皮を再び剥きながら、静かに答えた。

「・・・うん。」

そんな返事に、母は何も言わなかった。
きっともうどうにもできないから。
母にも私にも。


その日の食卓に並んだ肉じゃがは、やっぱり静かに減っていった。






  




   



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