冬の小鳥

10


クリスマス・イブの日。
突然残業をお願いされた。
ほとんどの社員がそわそわし、定時で切り上げて帰って行く中、経理課長の大沢さんは「ごめんなさいね。」と申し訳なさそうに言った。

渡された仕事を確認し、休憩室で電話をかける。
婚約者の携帯電話に。
何度かのコールの後、軽薄そうな彼の声が耳元で聞こえた。

「すみません。今日、残業をすることになってしまって。少し遅れると思います。」
私は用件だけを早々に伝えた。
「そんなの放り出せよ。真面目すぎ。」
そんななんでもないような返事。
私には彼がどういうつもりで私を婚約者にと請うたのか、いまだによくわからない。
望めばきっと誰だって手に入る。
年上の私なんかではなく、彼の好みの派手で可愛らしい女の子が。
それなのに、なぜ私なのか。
「そういうわけにはいかないんです。急いで終わらせて行きますから。」

電話を切った後、深くため息をついた。
彼と話をするのは本当に苦手だ。まだ大学生の彼には仕事の都合などわかっていない。いや、たとえ社会人になったとしてもわからないかもしれない。
彼の父親は県議会議員で、母親はどこかのお金持ちのお嬢様。彼の兄は父親のもとで政治の勉強をしていて、いずれは選挙に出馬する予定のようだ。次男である婚約者は自由奔放に、わがままに育てられた。
そんな話を友人の一人から聞かされ、ああなるほど、と納得させられた。
こちらの都合など顧みず、勝手に予定をおしつける、断れば私の父親に告げ口をし、何もかもが自分の思い通りにいくように。
ああ、今日は行きたくない。
この間遊園地でばったり出会ってしまったことも気まずい。
そういえば、あの日のことを、父には告げなかったのだろうか。父は何も言ってこないし。


一人、自分のデスクに戻る。ガラリとしたフロア。
改めて見渡すと結構広い。
こんな日に残業は誰だってやりたくはない。
一刻も早く家に帰って、家族なり恋人なりと過ごしたいはずだ。残業を言われて、密かに喜んでいるのはきっと私くらいに違いない。それでもきっと行かなければまたあの人は父に告げ口をすることだろう。

カタカタとキーボードを叩いていると、ふいに人の気配を感じて後ろを見た。
警備員さんだろうと思っていたけど、そこに立っていたのは速人さんだった。
「あ、・・・副社長。」
誰もいないのはわかっていたけど、一応”副社長”と呼ぶ。
「終わりそう?」
「あ、もう少しで・・・。」
急いでやったためか、待ち合わせの8時にはなんとか間に合いそうだった。
「送っていくよ。」
「え?」
「どこのホテルだっけ?」
「・・・あの、一人で行けます。」
たとえ、どうでもいい婚約者だとしても、送ってもらうなんてあまりにも速人さんには失礼なことだ。
「せっかくのイブだから少しでも一緒にいたい、と言ったら?」
別の女性を探したらどうですか。もはやそんな言葉は出てこなかった。
少しでも一緒にいたいという、彼の言葉が心の底から嬉しく思えた。
それなのに、私は好きでもない婚約者とイブの食事をしなければならない。



「はぁ・・・。」
結局私は速人さんに送ってもらうことになって、私は何度ついたかわからないほど、ため息ばかりこぼしていた。
「そんな暗い顔しなくても、今日は誕生日だろう?」
「え、どうして知って・・・。」
「紀美香の履歴書、社内用の公開プロフィール、全部覚えてるから。」
「ええ?」
「ストーカーまがいのことやってるな、俺。訴えたりするなよ。」
「そ、そんなことしないです。」
どうして自分の会社の副社長を訴えなければいけないのか。
それに履歴書もプロフィールも別に見られて困るようなことは記載していない。

「というか、面接の時から知ってる。」
「イブ生まれだから、ですか?」
「それもあるけど、俺も今日誕生日だから。」
「え!?」
同じ日が誕生日だなんてビックリだった。
本当に偶然?でも生まれる日を選べるわけじゃないし。
どこか運命的な事実に鼓動が高鳴った。
「ケーキはクリスマスと誕生日と一緒だったりしたろ?」
「そうです。」

自分がイブ生まれで、周りからはすごいね〜、なんてよく言われていたけど、イブと誕生日が一緒だなんてあまり良いことなんてなかった。
誕生日なのにメリークリスマス、と書かれたケーキ。
プレゼントも1個だけ。
もちろんそんなケーキもプレゼントも幼い頃だけだったけれど。
幼い頃、きっとあの頃の私は一番幸せだった。
父も今ほどに頑固なところはなかったし、子どもだったからまだ何も知らなかっただけかもしれないけれど、優しいときだってあったのだ。
その記憶があるからこそ、私はすべてを捨てることができない。
嫌いになって憎みたいのにそこまではできない。
兄のように家を出ることができないでいる。

「今日は誕生日でクリスマスだから、サンタクロースがプレゼントでも持ってきてくれるさ。」
冗談で言っているに違いないのだけど、なぜか、彼がサンタクロースなんていう言葉を使うのは妙に違和感がある。
サンタクロースを信じているはずはないのに。
私はよっぽど怪訝そうに彼の顔を見ていたのかもしれない。
速人さんは苦笑しながら、「サンタはいるんだよ。」と言った。

「見たことあるんですか?」
「あるよ。」
「本当ですか?」
「ああ。」
「どこで・・・。」
「フィンランドのサンタクロース村。」
「・・・それって観光地化してるところですよね。」
「そうだな。」
テレビで特集をしていたことは知っている。
サンタクロース村。
フィンランドのロヴァニエミにあるという。
そこに棲むサンタクロースに手紙を出せば返事が返ってくるらしい・・・けど。

「本物ですか?」
「本人がサンタクロースだって言ってるんだから本物だろう。」
「信じてるんですか?」
「信じてちゃ悪いか?」
「いえ・・・。」
あまりにも意外すぎる。
きっとそれは私たち社員が描く”副社長”のイメージとはかけ離れているからだ。
彼のことを、もっと知りたいと思う。
誰も知らない速人さんのことを。


「私も、行ってみたいな、サンタクロース村。」
独り言のつもりでつぶやいてみたら、あっけなく返事がもどってくる。
「一緒に行こうか。」
「そんな簡単に行けないですよ。」
「飛行機に乗れば連れてってくれる。」
「それが大変です。休みだって・・・。え・・・?」
信号が赤になったところで、彼は私をじっと見つめた。
「元気になった?」
ああ、そうか。
彼は私を元気づけようとしてくれたんだ。
私があまりにもため息ばかりついているから。
一緒に行こう、なんて嘘でも嬉しい。

気づくともう、約束のホテルまできていた。
信号が青になって曲がればホテルのパーキング。
このまま連れ去ってくれればいいのに、そんなことを思いながら私はやっぱりため息をついてしまった。



   




   



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