冬の小鳥




『 私は小さな鳥籠から出ることのできない鳥のようだ

  どんなに望んでも どんなに願っても
  この檻の中で
  この枷につながれて

  私はつまらない生涯を終えるのだ 』



それはまるで自分のことのようだと思った。
特にこの話が好きだというわけではないけれど、この一文が私の心に呼びかける。『これは君のことだよ。』と。
「はぁ・・・。」
読むんじゃなかった。
こんな暗い話、読みたくない。
それなのに、どうして手にとってしまったのか自分でもわからない。最近はなるべく明るい話やほのぼのとしたエッセイ、もしくはファンタジー小説ばかりだったのに。
ふと、窓から下を眺める。
スーツ姿の人たちがだいぶ増えてきた。もう少しすればみんなが出社してくる時間帯だ。
私はいつも誰よりも早く会社に着く。
もちろん警備員さんよりは遅いけれど。

朝一番の誰もいない会社の休憩室の窓際で、コーヒーと朝食用のサンドを口にしながら小説を読むのが日課となっていたりする。
緑の木々が少しずつ色づき始めるこの初秋の季節は読書にもってこい。
と言っても、この早朝の読書のきっかけとなったのは真夏の満員電車に揺られるのが嫌だったから。
少しずつ早めに出るようになって、気がついたら1時間も早く出社するようになっていて、デスクを拭いたりポットのお湯を沸かしたりしていても時間がたっぷりと余ってしまう。
そんなわけで早朝の日課ができてしまったのだ。

けれど、今日ばかりはちょっとテンションが低い。
朝から暗い話を読んでしまったから。もちろん途中までだけれど。
この話がハッピーエンドになるかどうか、微妙なところだ。この作者は、主人公を幸せにする気などないのかもしれない。

「随分と早いんだな。」
え?
その声に驚いて私は頭を持ち上げる。
そんな私の視線の先には自販機のコーヒーができあがるのを待っている、よく見知った男の人。

社内一のプレイボーイと噂される副社長の姿だった。


「副社長も、今日はお早いんですね。」
話をするのは初めてでは、ない。
たまに私たちのフロアに顔を見せる彼は、どうやら私の直属の上司である経理課長とは親しいようだ。
その経理課長はこれがまた美人な女性なので、噂のひとつにもなっていたりするのだけれど、二人は肯定も否定もしないのでやっぱり噂のままだ。
そんな経理課長の下で働く私は、挨拶程度の会話をよく交わす。
けれどそれだけだった。
「会社に泊まったんだ。どうしてもやってしまいたい仕事があってね。」
会社には一応仮眠室というものがある。
繁忙期などで忙しい部署の人たちは何人か泊まりがけで仕事をする、と研修時に聞いてはいたけれど、今のところ私の周りでそんな人はいなかった。
それに女性は防犯上の理由から泊まりは禁止されている。
まだ入社して1年目の私には今の状態が忙しいのかどうかはまだわからない。

「大変ですね。」
まるで人ごとのように口にして、しまった、と口を押さえた。
自分の働く会社の副社長が泊まりがけで仕事をしているのに、大変ですね、はマズイ。
「すみません。」
慌ててそう言うと、副社長はできあがったコーヒーを手にしてニッコリと微笑んだ。
徹夜明けとは思えないほどの爽やかな笑顔。
ああ、この笑顔にみんなやられてしまうんだ、と思った。
私は外見重視で人を好きになったことはないけれど、この顔で微笑まれたら悪い気分にはならない。
「その本、面白い?」
「え?」
最初は一体なんのことだろうと思ったけれど、副社長の視線が私の手元の本にあるのがわかって、この本のことを言っているのだと気づいた。
「朝読むには向かないかもしれません。」
「そうか。じゃあ読み終わったら貸して。秋の夜長にはもってこいかな。」
あまりおすすめでないことを遠回しに言ったつもりが、ストレートに取られてしまって、少しだけ焦ってしまう。
秋の夜長って、この人はいつも女性と夜を過ごすのではないだろうかと思ったけれど、そこまで考えて、ただの社交辞令なのだと気づく。
副社長が読書だなんてあまりにも不似合いな気がした。

「俺が本なんて読むのか、って顔してるな。」
「え?そ、そんなことは・・・。」
うそ、なんで。
まるで心を読み取られたようで気まずい。
「趣味は読書、映画鑑賞、一人旅も好きだな。似合わないだろ。」
「そ、そんな。」
口に出しては一言も言ってないのに。
「だから、さ。松井さんのお薦めの本があったら貸して。昔は本屋で立ち読みしておもしろそうなら買ってたけど、今はあまり時間もなくて本屋巡りもできない。」
そりゃー、副社長ともなればそれなりに忙しいのだろう。
けれど忙しいのはそれだけではないのでは?なんてどうしても副社長につきまとう噂のことを気にしてしまう。

「毎朝、ここにいるわけ?」
「ええ。そうですけど、やっぱり良くないですか?」
個人情報なんかも扱っている会社だ。一人で朝早くいたりすると怪しまれたりするのかもしれない。
「いや、問題ないよ。松井さんは正社員だし。」
「すみません。会社の事情とかまだわからなくて。」
「松井さんはいつも一番に出社してお湯沸かしたりしてるから、いつも何時に来てるんだろうって不思議に思ってたよ。」
「え?」
どうしてこの人がそんなことを知っているのだろう。
そう尋ねる間を与えず、副社長は空になったコーヒーの紙コップをゴミ箱に捨てると、そろそろ戻らないとな、と言って休憩室を出て行ってしまった。
いつの間にコーヒーを飲んだのだろう。

私はまだ半分近く残っているコーヒーを急いで飲み干した。



   




   



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